●島八太郎(しまはったろう)
鎌倉時代、能登島が伊勢神宮の御領地であった頃、島を治めるために8人の役人が島に渡り、善政を行ったことから、能登島は八太郎島と呼ばれるようになった。その8人の役人のことを「島八太郎」という。
當麻太郎(鰀目)、森左近(小浦)、平野佐近(日出ヶ島)、秀則(須曽)、大崎右門(半ノ浦)、水蔵右衛門(閨)、久木右衛門(久木)、大浦右門(向田)
鎌倉時代、能登島が伊勢神宮の御領地であった頃、島を治めるために8人の役人が島に渡り、善政を行ったことから、能登島は八太郎島と呼ばれるようになった。その8人の役人のことを「島八太郎」という。
當麻太郎(鰀目)、森左近(小浦)、平野佐近(日出ヶ島)、秀則(須曽)、大崎右門(半ノ浦)、水蔵右衛門(閨)、久木右衛門(久木)、大浦右門(向田)
●寺島蔵人(てらしまくらんど)
寺島蔵人(1777~1837)は、禄高450石の中級武士として加賀藩に仕え、改作奉行、大坂借財仕法主付など主に藩の農政、財政方面の実務を歴任した。文政7年(1824)12代藩主前田斉広(なりなが)が有能な藩士を抜擢し、教諭方と言う反省改革のための親政機関を設置すると蔵人も一員に加えられたが、その年斉広の急死により教諭方も解散した。蔵人は手腕家であると同時に生来、思いやり深く正義感の強い人であったため、斉広死去後の藩の重臣の政治に納得が行かず、これと対立し、文政8年役儀指除、天保8年(1837)能登島流刑となり、その年ここで波乱に満ちた生涯を閉じた。
寺島蔵人は画人としても知られ、「王梁元(おうりょうげん)」、「応養(おうよう)」と号し、数々の秀作を遺している。蔵人の絵画は山水図、竹石図が多く、牡丹図も見られる。山水図は、山容、樹木、岩の表現に見られる緻密な描法にその特色がある。文化5年(1808)蔵人32歳のとき、文人画家として名高い浦上玉堂が寺島邸を訪れた。これが契機となったのか、蔵人は若い頃から絵の独学を重ね、晩年に独自の画風を完成した。
寺島蔵人(1777~1837)は、禄高450石の中級武士として加賀藩に仕え、改作奉行、大坂借財仕法主付など主に藩の農政、財政方面の実務を歴任した。文政7年(1824)12代藩主前田斉広(なりなが)が有能な藩士を抜擢し、教諭方と言う反省改革のための親政機関を設置すると蔵人も一員に加えられたが、その年斉広の急死により教諭方も解散した。蔵人は手腕家であると同時に生来、思いやり深く正義感の強い人であったため、斉広死去後の藩の重臣の政治に納得が行かず、これと対立し、文政8年役儀指除、天保8年(1837)能登島流刑となり、その年ここで波乱に満ちた生涯を閉じた。
寺島蔵人は画人としても知られ、「王梁元(おうりょうげん)」、「応養(おうよう)」と号し、数々の秀作を遺している。蔵人の絵画は山水図、竹石図が多く、牡丹図も見られる。山水図は、山容、樹木、岩の表現に見られる緻密な描法にその特色がある。文化5年(1808)蔵人32歳のとき、文人画家として名高い浦上玉堂が寺島邸を訪れた。これが契機となったのか、蔵人は若い頃から絵の独学を重ね、晩年に独自の画風を完成した。